作:早川ふう / 所要時間 40分 / 比率 2:0 20250318 利用規約はこちら
それはウォッカ・ギブソンにも似た
【登場人物】
千秋 拡 (ちあき ひろむ)
30代男性。バーテンダー。店主。
成人と同時にカミングアウトした俗に言うオネエ。
女装はしていないが、女言葉で話す。パートナーは長くいない。
櫻井 朝陽(さくらい あさひ)
30代男性。常連の会社員。
千秋よりは年上だが、千秋からはボウヤと呼ばれている。
ノンケだが、千秋を口説くような言葉遊びをよくしている。
(千秋、誰もいない店内を清掃している。
一段落し、水を飲む。
そこへ朝陽が来店する)
千秋 「いらっしゃい」
朝陽 「よお千秋。ただいま」
千秋 「……おかえりなさい」
朝陽 「珍しいな、客がいないなんて」
千秋 「不景気でやんなっちゃうわね。
しょうがないから、のんびりしてたところよ」
朝陽 「そりゃあ悪い時に来ちまったな」
千秋 「ボウヤはいつも間が悪い男だわ。
ほら、座んなさいよ」
朝陽 「おう」
千秋 「今日はどうしたの? 何か悩み事?」
朝陽 「何かがないと来ちゃまずいみたいな言い方だな?」
千秋 「あらそんなことないわよ。
でも、ボウヤがアタシの店に来る時って、大抵何かあるじゃない」
朝陽 「まぁな。千秋には色々世話になってるよ」
千秋 「ふふふ」
朝陽 「実は、仕事でしばらく日本を離れるんだ。
発つ前に、千秋の酒を飲んでおきたくて」
千秋 「まぁそうなの。どこに行くの?」
朝陽 「シンガポール」
千秋 「いいじゃない。気候も治安もよくて住みやすいのよね」
朝陽 「そうらしいな」
千秋 「アタシ、老後に移住したいなって憧れがあるの、ちょっとだけね」
朝陽 「その話は初めて聞いたな。パートナーと二人で?」
千秋 「まあ! 独り身にそんな意地悪言わないでちょうだい。
その時も独りなら、気の合う友達とでもいいのよ、
あったかいところで、静かにのんびり暮らしたいなあって。
別にシンガポールじゃなくてもいいんだけどね」
朝陽 「へぇ。覚えとくよ」
千秋 「あら、そんなこと言われたら期待しちゃうわよ」
朝陽 「どうぞ」
千秋 「よく言うわ。これだからボウヤなのよ」
朝陽 「なんだそりゃ。大体、俺の方が年上だぞ?」
千秋 「いいのよ。あなたはボウヤで。
さ、ジントニックをどうぞ」
朝陽 「ありがとう。さすがだな?」
千秋 「ボウヤはいつも一杯目はジントニックでしょ。
覚えてるわよ、それくらい。
これでもバーテンダーですからね」
朝陽 「さすがだよ。
(カクテルを飲んで)うん、美味い」
千秋 「いつものお酒を飲んで美味しいと感じるなら、本当に大丈夫そうね」
朝陽 「何がだ?」
千秋 「泣き言を聞く必要はなさそうってこと」
朝陽 「俺のことを心配してくれるのは千秋だけだよ」
千秋 「馬鹿ね。ご家族に失礼よ」
朝陽 「本当さ」
千秋 「……」
朝陽 「そんな顔しないでくれよ」
千秋 「あら、そんな顔ってどんな顔かしら。
アタシはいつでもにっこり笑顔よ」
朝陽 「そうそう。その笑顔が好きなんだよなあ」
千秋 「またボウヤの悪い癖が始まったみたいね。
まったく仕方のないこと」
朝陽 「千秋は、俺ごときになびきはしないだろ?」
千秋 「あのねぇ。何度も言うけど、そういう遊びは女の子相手にしなさいよ。
アタシが万が一にも本気にしたら、どうするつもりなの?」
朝陽 「そいつは、そんな奇跡が起こってから考えるよ」
千秋 「ずるい人」
朝陽 「お互い様だろ」
千秋 「まぁ、心外よ。アタシのどこがずるいって言うの?」
朝陽 「バーテンダーはずるいよ。
どうしたって、バーカウンターって分厚い壁の向こうには手が届きやしない」
千秋 「……そうね。届くことはないわ」
朝陽 「だったら、ちょっとした言葉遊びくらい、楽しんだっていいだろ?」
千秋 「ほんと、危ないお遊びの好きなボウヤで困っちゃうわ。
アタシの店じゃなかったら、何回危ない目に遭ってるか、わからないわよ。
ボウヤのように、ノンケのいい男が一人でいるには、少し危ない街なんだからね」
朝陽 「そうだな、この街はあまり治安がいいとは言えないよなぁ」
千秋 「そうでしょう。
酔って歯止めの利かなくなった悪い男に捕まったら、どうするつもり?」
朝陽 「あしらえるくらいには鍛えているさ。
右ストレートをお見舞いするよ」
千秋 「それはあしらうとは言わないのよ?」
朝陽 「ははは。まぁ、問題はないさ」
千秋 「……ボウヤが初めてこのお店に来た頃は、
そんな鍛えたりとかしてなかったわよね。
シルエットが細かったもの」
朝陽 「確かに。鍛え始めたのはここ2年くらいの話だよ。
俺が初めて来た時のこと、覚えてるのか?」
千秋 「ええ、よく覚えてるわ。
アタシがこのお店を任されてから、わりとすぐだったのよ」
朝陽 「へぇ、そうだったのか」
千秋 「人の入れ替わりも激しい街だから、
あの頃のお客さんでボウヤだけよ、常連として今も通ってきてくれるのは」
朝陽 「じゃあ、でかい顔して酒が飲めるな」
千秋 「これ以上大きな顔をされたら困っちゃうけどね」
朝陽 「何だよ。上げて落とすなって」
千秋 「失礼。上げて落とすのはボウヤの十八番だったわね」
朝陽 「何の話だ?」
千秋 「それこそ最初、不思議だったのよね。
ボウヤはどうしてうちに来てくれるのかしらって。
もちろん、女の子の常連もノンケの常連もいるけれど、
ボウヤほど頻繁に来てくれた子は珍しかったし、
最初はそこまでアタシと話をしていたわけでもなかったでしょう。
もしかしてアタシに気があったりしたら……とか考えたこともあったの」
朝陽 「そいつは期待外れで申し訳なかったな」
千秋 「ほんとよね。想像しただけ無駄だったわ。残念」
朝陽 「ちなみに、千秋のタイプってどんな男なんだ?」
千秋 「……タイプかどうかは寝てみないとわからないわよ。
何も知らない無垢な男の身体に色々教えてあげて、
どんどん快楽に溺れていく顔に、ハマっちゃうのよね」
朝陽 「その話、本当ならちょっと引く」
千秋 「もちろん冗談よ」
朝陽 「千秋の冗談は冗談に聞こえないんだよなあ……」
千秋 「……普通の人よ」
朝陽 「え?」
千秋 「タイプの話。アタシは普通の人がいいわ。
アタシ相手でも、色眼鏡で見ることなく、
普通に話をしてくれて、普通に笑ってくれる人」
朝陽 「……そうか。そういうの、いいな」
千秋 「でもそういう男は大抵もう相手がいるのよ。
ノンケでも、ゲイでもね。
恋だけならいつでもできるかもしれない。
ただ、付き合うまでには至らないわね」
朝陽 「寂しいか?」
千秋 「いいえ。
アタシにはこのお店があるもの」
朝陽 「……そう言い切れる千秋は素敵だよ」
千秋 「まぁ、アタシに惚れたら火傷するわよ、ボウヤ」
朝陽 「おお、こわいこわい。
……話は戻るけどさ」
千秋 「ええ、どうぞ」
朝陽 「……初めてここに来た頃のこと、俺もよく覚えてるんだ」
千秋 「あらそうなの?」
朝陽 「癒しを求めてたんだ。
ここは何つーか、フィーリングが合ったんだよな」
千秋 「フィーリング?」
朝陽 「初めて店に来たのは偶然だったけど、
飲んだジントニックの味が好みドンピシャで驚いたんだ。
その時した会話も覚えてる」
千秋 「あら、何だったかしら」
朝陽 「『今日は暑かったですね、二杯目にモヒートはいかがですか』」
千秋 「ああそうそう。モヒートを飲んでいただいたわね」
朝陽 「この店、ほんと居心地がいいんだよなあ。
酒も美味いし、千秋との会話も楽しいしさ」
千秋 「お褒めにあずかり恐縮です。
せっかくだし、二杯目、モヒートにする?」
朝陽 「そうだな。頼む」
千秋 「はぁい」
(少しの間。千秋、フレッシュミントを潰しはじめる)
朝陽 「……あの日も、ナッツをつまみながら、
千秋がそうやってミントをガシガシ潰してるのをぼーっと見てた」
千秋 「バーテンダーの手元を見て暇をつぶすお客さんは珍しくないの。
でもボウヤは、目が死んでたわよね……だからすごく気になったわ」
朝陽 「人生で一番、つらかった時だったから」
千秋 「……泣き言、言ってくれてもよかったのに」
朝陽 「口に出すのもつらかったんだよ。
でも、千秋とぽつぽつ話すようになって、
愚痴とか、ちょっとずつ話すようにもなっただろ」
千秋 「そうね」
朝陽 「気兼ねなく話せるバーテンダーがいるって、贅沢だよな。
俺もやっと一人前の社会人になれた気がしてる」
千秋 「……一人前になれたから、飛び立ってしまうのかしら」
朝陽 「かもな。世知辛いぜ」
千秋 「……どれくらい、行くの?」
朝陽 「3年は行ってほしいとは言われてる。
帰国する機会はあるだろうし、その時は顔を出すよ」
千秋 「……ええ」
朝陽 「土産のリクエストは?」
千秋 「ないわ。また元気な顔を見せてくれれば、それでじゅうぶん」
朝陽 「……そうか」
千秋 「モヒートをどうぞ」
朝陽 「ありがとう。(飲んで)美味いなあ……」
千秋 「ボウヤはいつも美味しそうに飲むわよね。
バーテンダーにとって、いいえ、
これは飲食に携わる者みんなそうだと思うけど、
こういうのって本当に嬉しいのよ、ありがたいわ」
朝陽 「お世辞じゃなく本当に美味いからさ。
千秋の腕がいいってことなんだから、自信を持てよ」
千秋 「ふふ、ありがとう」
朝陽 「……俺の他に客がいないバーって、変な感じだな。
バーテンダーとサシで、こう長く向かい合っていられるのもなかなかないし」
千秋 「そうね。たまにはこういうのもいいんじゃない?」
朝陽 「うん……」
千秋 「……あの、」
朝陽 「うん?」
千秋 「こんなこと、訊いちゃいけないのかもしれないけど」
朝陽 「何? どうした?」
千秋 「奥様は、シンガポール一緒に行くの?」
朝陽 「……いや」
千秋 「えっ? 単身赴任?」
朝陽 「まぁね。一人寂しく行ってくるんだよ」
千秋 「……じゃあ、アタシが着いていこうかなあ」
朝陽 「えっ? お店は?」
千秋 「……やあね。冗談に決まってるじゃない」
朝陽 「おいおい、びっくりさせるなよ」
千秋 「いいじゃない。シンガポール行ってみたいんだものっ。
帰ってきた時には、たくさんお土産話を聞かせてね。
楽しみにしてるから」
朝陽 「おう」
千秋 「……」
朝陽 「……ふふっ」
千秋 「どうしたの?」
朝陽 「いや。千秋がもし一緒だったら、退屈しないだろうなと思って」
千秋 「意地悪っ、ただの冗談をそうやって蒸し返すんだからっ」
朝陽 「……千秋。隣に座らないか」
千秋 「え?」
朝陽 「今少しだけ、こっちに来てくれないか」
千秋 「ど、どうして?」
朝陽 「バーでの秘密は守られる。そうだろ?」
千秋 「それはここがバーでアタシがバーテンダーだから言えることなのよ?
……アタシがそっちに行ったら、バーじゃなくなっちゃうわ」
朝陽 「それでもいいよ。
今、千秋と、話したいことがあるんだ」
千秋 「……でも」
朝陽 「頼むよ」
千秋 「仕方ないわね。……特別よ?」
(千秋、カウンターの外へ出て、朝陽の隣に座る)
千秋 「変な感じね。こうやってこっちに座ると落ち着かないわ」
朝陽 「はは。だろうな」
千秋 「……それで、話ってなあに?」
朝陽 「いきなり本題かよ」
千秋 「えっだめなの?」
朝陽 「いや、だめじゃないけど」
千秋 「落ち着かないんだから早く本題に入ってちょうだい」
朝陽 「わかったよ。
……千秋は、俺のことどう思う?」
千秋 「……え?」
朝陽 「男として、どう思う?」
千秋 「それは、どういう意味かしら。
同じ男としてどう見えているかという意味?」
朝陽 「そうじゃないよ。
言葉どおりの意味だ」
千秋 「……ずるい人だと思ってるわよ」
朝陽 「それは何度も聞いてる」
千秋 「それ以外の言葉を望むの?」
朝陽 「男としてどう思うか訊いてるんだ」
千秋 「……モテる人だと思うわ。人たらしっていうか。
男女関係なく、好かれるんじゃないかしら」
朝陽 「それは俺のことを憎からず思ってるから出る言葉だと解釈していいのかな?」
千秋 「そんなの知らないわよ」
朝陽 「むくれないでくれ。大事なことだ」
千秋 「何度も言ってるけど、そうやって口説くのは若い女の子限定にしなさいよ。
さすがにアタシ相手は、洒落にならないんだからね」
朝陽 「洒落のつもりはないよ」
千秋 「じゃあどういうつもりだっていうの?
本当にアタシをシンガポールに連れていくつもり?」
朝陽 「誘ったら本当に来てくれる?」
千秋 「……っ、質問に質問で返して、肝心なところは、はぐらかす。
そういうところがずるいって言ってるのよ!」
朝陽 「はぐらかしてるつもりはないよ。
……本当に一緒に来る?」
千秋 「……無理」
朝陽 「……お店、あるもんな……」
千秋 「そうね。アタシはどこにも行けないわ」
朝陽 「だよな……。
はぁ……男相手ってのは難しいもんだね。
気持ちを匂わせても、さらりとかわされるし、
素直に伝えても、ちっとも伝わっていない気がする」
千秋 「そろそろ引き際を覚えてほしいものだわ。
冗談が冗談でなくなったら困るでしょう?」
朝陽 「千秋。俺は、」
千秋 「アタシ、誰か泣く人がいるってわかってる場所へは、絶対に踏み出さないの」
朝陽 「……泣く人なんか、いないと言っても?」
千秋 「そういう台詞は薬指の指輪をはずしてから言うものよ」
朝陽 「手厳しいな」
千秋 「詰めが甘くて、ずるくて、ひどい男。
だからアタシはあなたをボウヤって呼んでるのよ。
嫌いになりたくないんだもの。
……知らなかったでしょう?」
朝陽 「……千秋?」
千秋 「なに?」
朝陽 「……千秋、俺のこと、好きだろう?」
千秋 「は? 何馬鹿なこと言ってるの」
朝陽 「じゃあ、どうして泣いてるんだ?」
千秋 「え……」
朝陽 「嫌いになりたくないくらい、俺のこと、好きなんじゃないのか?」
千秋 「そんなことないわ。
あなたがわからないことばっかり言うから
情けなくて涙が出ただけよ。
年のせいかしら、涙腺が弱くてやだわ!」
朝陽 「……拡(ひろむ)」
千秋 「えっ!?
……ど、どうしてアタシの下の名前をボウヤが知ってるの?」
朝陽 「前に他の客と話してたのが聞こえて、覚えてた」
千秋 「女の子相手なら、下の名前呼んでドキッとしたりとか、
そういう手管もありだとは思うけど、
アタシ相手には通用しないわよ」
朝陽 「手管なんかじゃないさ。
客からは大体千秋とか千秋さんとか呼ばれてるだろ。
ちーちゃんって呼ばれてたこともあったっけ。
まぁとにかく、俺しか呼ばない呼び方してみたかっただけなんだ」
千秋 「迷惑だわ。次そう呼んだら殴るわよ」
朝陽 「了解。残念だけど諦めるよ」
千秋 「……」
朝陽 「……涙、止まったか?」
千秋 「……おかげさまで」
朝陽 「泣かせたかったわけじゃないんだ。本当ごめん」
千秋 「……」
朝陽 「涙には、弱いんだ。嫌なことばかり思い出す」
千秋 「それは、何人もの女を泣かせてきたっていう自慢かしら」
朝陽 「勘弁してくれ。……妻のことだよ」
千秋 「奥様?」
朝陽 「『何もできなくてごめんなさい。
私のことは早く忘れて、素敵な人と一緒になって、幸せになって』
最期に、静かに泣きながら、そう言ったんだ」
千秋 「待って、奥様ってもしかして」
朝陽 「五年前の話だよ」
千秋 「五年前……」
朝陽 「……妻のことを、忘れるつもりはなかったんだ。
だから指輪も外さなかったし、妻は生きていると思って暮らしてきた。
でも……妻はわかっていたのかもしれない。
俺が、素敵な人と出会うって」
千秋 「ちょ、ちょっと本当に待ってちょうだい。
あの、アタシ、理解が追い付かなくて」
朝陽 「……いくらでも待つよ」
千秋 「……黙っていられても逆に気まずいわ!」
朝陽 「わがままだなあ」
千秋 「だって、こんなのってないわ。
アタシ、今までボウヤに無神経なことたくさん言ってきたんじゃないの?」
朝陽 「たまに、妻の話題にはなってたね。
俺も話題にしたことあるし、お互い様だよ、気にしてない」
千秋 「ここ2、3年のことだと思うけど……
ボウヤが今までアタシに言ってきた言葉遊びって、
もしかしてあれ、全部本気だった?」
朝陽 「まぁ、探りを入れていた感じかな。
何せ、自分でも男を好きになるなんて思わなかったからね。
葛藤がなかったといえば嘘になるし。
少しずつ、自分で確かめていった気もする」
千秋 「……ずっと指輪をしていたのはどうして? 女避けとか?」
朝陽 「いや、これは……恥ずかしながら、抜けないんだよ」
千秋 「え?」
朝陽 「鍛え始めた時に、指も太くなってさ。
気が付いたら抜けなくなってた。
馬鹿だよな。千秋に男として見てもらおうと鍛え始めたのに、
指輪を外せなかったら意味ないって話。
おかげで泣かせたし、情けなさすぎる」
千秋 「じゃあ、じゃあ……アタシ、あなたをボウヤって呼ばなくていいの?」
朝陽 「そういうことになるのかな?
あ。そもそも千秋って、俺の名前、覚えてる?」
千秋 「忘れるわけないじゃない。……櫻井さん」
朝陽 「苗字。しかもさん付け」
千秋 「だって!! 最初はそう呼んでて、そのうちボウヤになったから……」
朝陽 「……下の名前は?」
千秋 「覚えてるわよ。……朝陽、さん」
朝陽 「やっぱりさん付けなんだ」
千秋 「も、もう、意地悪なんだから」
朝陽 「これくらいで意地悪とか言わないでくれよ」
千秋 「うん……」
朝陽 「……何だよ、いきなりしおらしいな。どうした?」
千秋 「……ねえ、朝陽さん」
朝陽 「うん?」
千秋 「……朝陽さんは、アタシに何を望んでるのか、訊いてもいいかしら」
朝陽 「え? 何って言われてもなあ」
千秋 「アタシだって、これからシンガポールに行く人に、
何かを望むのはおかしいってわかってる。
でも、何か、よすがになるものがないと、
多分、アタシ達は始まる前に終わってしまうと思うの」
朝陽 「……ってことは、俺と新しい関係を始めてくれる気はあるんだね?」
千秋 「もう……。はいはい、アタシの負け。
そうよ。アタシだってあなたに惹かれてましたっ」
朝陽 「嬉しいよ、すごく嬉しい」
千秋 「ノンケの妻帯者だと思ってたから、気持ちに蓋をしてたのに」
朝陽 「今日俺が全部ぶっ壊しちまったな」
千秋 「もー最悪よ。
始まった途端に遠距離恋愛確定でしょ?
こんなのってないわ!」
朝陽 「そう言うなって。俺だって寂しいんだから。
スマホ今ある? 連絡先教えてよ」
千秋 「やだもう。そこからなのよね。
連絡先ね。連絡先っていったって……。
仕事中にスマホなんか持ってるわけないじゃないの!」
朝陽 「しょうがねえなあ。
じゃあこれ、俺の名刺に番号載ってるから、あとで連絡くれ」
千秋 「はぁい」
朝陽 「あとはー……そうだな、千秋がこっち側にいるうちに……」
千秋 「え? なに?」
朝陽 「(千秋に軽くキスをする)」
千秋 「ん……っ、
(驚いて)えっ? どうして今!?」
朝陽 「千秋が可愛いから」
千秋 「アタシそんな、可愛い系じゃないの自覚してるわよ?」
朝陽 「俺には可愛く映ってるからいいの」
千秋 「もう……」
朝陽 「……もう一度、していい?」
千秋 「訊かないで……んっ、」
(深くキスをする二人)
千秋 「(唇が離れて)……もう……。
アタシったらどうかしてる。
お客さんとこういうことになるなんて……。
どうすればいいのか本当にわからないわ!」
朝陽 「いいバーテンダーを紹介してやりたいけど、
ここ以上にいい店を知らないんだ、悪いな」
千秋 「役立たず!」
朝陽 「ひでえ」
千秋 「確認だけど……付き合う、で、いいのよね?」
朝陽 「もちろん。千秋が俺でよければ、お願いしたい」
千秋 「……よろしく、お願いします」
朝陽 「ありがとう、幸せだよ」
千秋 「恥ずかしくて、どうにかなっちゃいそうだわ」
朝陽 「可愛いな」
千秋 「馬鹿」
朝陽 「せっかくだし、二人の始まりに乾杯したいところだけど、
まだモヒートが残ってるんだよな」
千秋 「構わないわよ。そうね、ギムレットでも作ってあげる」
朝陽 「……出たな? お得意のカクテル言葉か?」
千秋 「まぁね。意味は調べればすぐわかるからあえて言わないけど」
朝陽 「何で。教えてくれよ」
千秋 「お手持ちのスマホで検索なさったら?」
朝陽 「意地悪だな」
千秋 「べー!」
(千秋、バーカウンターの中へ戻る)
朝陽 「……あーあ。また手の届かない人になっちまった」
千秋 「ふふ。じゃあ作るわね」
朝陽 「(カクテル言葉を検索する)ギムレット、カクテル言葉……
……なるほど、こういう意味か。
離れてる間、ずっと想っててくれるんだな?」
千秋 「アタシ、浮気は絶対しないし、相手の浮気も絶対許さない主義だから、
そこのところヨロシクね」
朝陽 「了解」
千秋 「……もし浮気するなら、アタシに絶対わからないようにしてちょうだい」
朝陽 「おいおい」
千秋 「大事なことよ」
朝陽 「……肝に銘じておくよ」
千秋 「不安だわ。……遠距離恋愛は初めてなの」
朝陽 「そうなんだ」
千秋 「それにまず、恋愛自体が久しぶりなのよね」
朝陽 「へぇ。どれくらいぶり?」
千秋 「前の恋が終わってから、だいぶ経つわ。
それも、ただの片思いで。
ワンナイトならそれなりに経験はあるけれど、
こと恋愛となると実は経験が少ないの」
朝陽 「俺だって、男相手の恋愛の勝手はわからない。
恋愛初心者同士、ゆっくりやっていこうよ」
千秋 「そうね……。そうできるなら、ありがたいわ」
朝陽 「大事にするよ」
千秋 「……離れていくのに?」
朝陽 「それを言うなよ」
千秋 「だってほんとのことじゃない」
朝陽 「意地悪だな」
千秋 「あなたに鍛えられましたから」
朝陽 「ははは。……なぁ千秋」
千秋 「なぁに?」
朝陽 「俺のこと、名前で呼んでよ」
千秋 「え?」
朝陽 「千秋には、名前で呼んでほしいんだ」
千秋 「呼んでるじゃない。朝陽さんって」
朝陽 「さん、は取れない?」
千秋 「今は、難しいわね」
朝陽 「そうか。しょうがない、我慢するか」
千秋 「……朝陽さん」
朝陽 「うん?」
千秋 「……アタシのこと名前で呼んでくれない?」
朝陽 「迷惑って言ってなかった?」
千秋 「撤回するから、お願い」
朝陽 「……拡」
千秋 「……ふふ。いいものね。好きな人から名前を呼ばれるって」
朝陽 「そうだね」
千秋 「……ギムレットよ、どうぞ」
朝陽 「ありがとう。乾杯、してくれるんだろう?」
千秋 「ええ、いいわよ。でも、アタシはそっちのモヒートを貰うわ。
いいでしょう?」
朝陽 「……拡がいいなら飲んでくれて構わないよ」
千秋 「ありがとう」
朝陽 「じゃあ、二人の始まりに、乾杯」
千秋 「乾杯」
朝陽 「(ギムレットを飲んで)……美味いよ」
千秋 「嬉しい」
朝陽 「なあ」
千秋 「なぁに?」
朝陽 「酔っ払いの戯言だと思って聞いてほしいんだけど」
千秋 「うん」
朝陽 「こうしてるとさ……この世界に、まるで俺と拡しかいないような錯覚に陥るよ」
千秋 「あら、そう?」
朝陽 「拡は、そう思わない?」
千秋 「だって、いつお客さんが来るかわからないじゃない」
朝陽 「現実的だな」
千秋 「ここにいる以上どうしてもそうなるわ」
朝陽 「まったく、高い壁だよ。甘い言葉も届きやしない」
千秋 「朝陽さんはロマンチストよね」
朝陽 「そうかな。あまり自覚はないんだけど」
千秋 「現実を彩るロマンは好きよ。
虚飾の妄想は大嫌いだけど」
朝陽 「それは経験談?」
千秋 「いいえ。でも色々な話を聞くから」
朝陽 「なるほどね」
千秋 「アタシは不安になるのよね」
朝陽 「え?」
千秋 「アタシ達以外誰もいないってめったにないシチュエーションすぎて、
もしかして外の電灯つけ忘れてないかしら、とか
クローズドの札かけちゃってないかしら、とか
そういうことが不安になってくるの」
朝陽 「店をやってる者の発想だね」
千秋 「……アタシのお店には飽きちゃって、
もう誰も来ないんじゃないかしら、とか
そんなことも考えたりするのよね」
朝陽 「それはありえないよ」
千秋 「でもどこでお客さんが離れていくかなんて、わからないものよ」
朝陽 「この店は最高さ。
さっきも言っただろう?
この店以上の店を俺は知らない。
千秋拡は最高のバーテンダーだよ。俺が保証する」
千秋 「……ありがとう。
やだ、そんなこと言っていたらお客さんがきたわ。
いらっしゃい。瀬崎ちゃん、今日は慧子ちゃんと一緒なのね。
ふふふ、姉弟仲良くて何よりだわ。
どうぞ座って。ゆっくりしていってね」
(間)
千秋 まさかお客さんと付き合う日がくるなんて、
人生何が起こるかわからないものだわ。
昨日までは一人で生きていたのに、
今日から二人になったなんて、今でも信じられないの。
遠距離恋愛なんてアタシにできるのかしら。
でも、やるしかないわよね、せっかく縁あって始まったんだから。
朝陽 まさか男と付き合う日がくるなんて、
人生何が起こるかわからないもんだ。
バーでは少しの嘘は許されるというけれど。
神様は、いったいどこまで見逃してくれるんだろう。
だって……どうしても手に入れたくなってしまったんだ。
惚れてしまったものは仕方がないだろう?
(間)
朝陽 「千秋」
千秋 「……なぁに?」
朝陽 「チェックを頼む」
千秋 「はぁい、ただいま」
朝陽 「……連絡、待ってるよ。拡」
千秋 「……ええ、わかってるわ。あとでね、朝陽さん」